オオサンショウウオと、母と、お祭り

尾籠
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おはようございます。百井桃太です。

 

今日は少し真面目に僕の子供の頃の話をしたいと思います。

 

 

僕はよく我慢強い、忍耐力がある、継続力がある、意志が強いなどと言う褒め言葉をいただきます。自分ではよくわからないのですが、これはもう子供の頃からそういった性格だったのだろうなというエピソードを思い出したので今回、この場にしたためることにしました。

 

あれは僕が四歳から五歳だった時の頃。うっすらと記憶には残っていますが、大部分は母から聞かされたお話です。

 

私の地元の県では、年一で大きなお祭りが開催されます。乳母日傘で育った僕は子供の頃、よく両親にそのお祭りに連れていってもらっていました。

 

その年も例年通りにお祭りに参加した僕。色彩鮮やかな光、賑やかな音、楽しげな騒めき。お祭りの意味自体もよくわかっていませんでしたが、子供ながらに心地よく感じていたのだと思います。みんなが笑い合い、行き交う「お祭り」というものが本当に気持ちをワクワクさせてくれたのを思い出します。

 

綿あめを買ってもらい、舐めながら歩いた砂利道。今となっては子供騙しの一文菓子も、当時は頬っぺたが落ちるほどのご馳走でした。屋台のおじさんから白くて大きなふわふわを受け取ったとき、本当に嬉しくて嬉しくて「うわぁい」と叫んでしまったのを憶えています。

 

そして僕にとって、祭りといえばくじ引きでした。

 

ゲームやら、ラジコンやら、大きなぬいぐるみやら。子供の夢ともいえるおもちゃたちの並んだ大きなおもちゃ箱がくじ屋さんでした。祭りの中にくじ屋さんはたくさんあるのですが、お店の前を通るたびに目が釘付けになっていました。そんな僕を見て、両親はニコニコしながら五百円玉を握らせてくれるのでした。

 

くじを引いて大物に当たった記憶はありません。どれだけやってもいつもおじさんは僕の見えないところからゴソゴソと何かを掻き分け、これを差し出してくるのでした。

画像1

 

しかし、こんなおもちゃでも祭りの時の僕にとっては宝物でした。歩きながらびゅいん、びゅいん伸びるそれは、僕の目にはまるで魔法使いのステッキのように輝いて見えました。水ヨーヨーを持っていたり、りんご飴を持っていたり、金魚を持っていたりする同い年くらいの子に目移りもしたけれど、そんな子達を見るたびに僕は「こっちの方が凄いんだぞう」と言わんばかりに棒をびゅいん、びゅいんと振るのでした。

 

そんな折、母が僕に言いました。「ももちゃん、おトイレに行きたくなったら早めにいうんだよ」

僕は「うん!」と元気に返事をしました。でも何よりもお祭りが楽しくてひとときもそのお祭りの雰囲気から離れたくありませんでした。

 

そうやって限界までくじ屋さんや型抜き屋さんや曲芸に張り付いた結果、僕が母に最初に言ったのは「う●ちでそう」という衝撃的な台詞でした。

 

「早めに言いなさいっていったでしょう!」

 

母はそう言いながらも僕の手を引いてトイレの方へ向かいました。

折悪しく、女子トイレには長蛇の列。僕はまだ一人でトイレができない年齢だったので母に付き添ってもらうには女子トイレに入るしかありません。母も流石に男子トイレに入る勇気はなかったようです。

 

「ももちゃん、もう少しだけ我慢できる?」

「うん」

 

どう甘く見積もっても十数人は並んでおり、「もう少し」ではありません。母も気が気じゃなかったと思います。それでもなんとか幼い僕を励まし、声を掛けてくれていたそうです。

 

僕はというと母の「大丈夫?」「もうちょっとだからね」という問いかけに「うん」「うん」と健気に返事をしながらも、蒼ざめた顔面に脂汗を垂らしていたとの事でした。大人になっても、この時の僕の気持ちはわかります。心底苦しかったのだと思います。そして大人であれば、緊急事態となった際に自力でどうにでもできそうですが、子供は大人に付き従うことしかできません。自身の無力さを感じながら、僕はただただ幼く未熟な肛門括約筋を締め上げていました。五歳ながらにこの胸突き八丁の中で、人生は楽しいことだけじゃないと感じていました。

 

しかし、永遠にも思える時間にも、いつしか終わりはやってきます。

 

後から聞けば、その時間は約二〜三十分にも及んだといいます。その時間を僕は耐え忍びました。乳歯を噛み削りながら拷問のような時間を堪え、ついに個室に入ることができました。個室に入る直前、もう我慢も限界だったのか僕の顔は苦言を呈する伊東四朗のように渋いものになっていたそうです。

 

「よくがんばったね。もうう●ちしてもいいんだよ」

 

母に促され「うん!」と勢いよく返事をした僕は、すっぽんぽんになり、和式便所の上で力みました。

 

もり。

 

大地が揺れるような音でした。肉壁を掻き分けて僕の苦しみの根源がこの世界の光を浴びた瞬間でした。

 

もりもり。

もりもりもり。

もりもり。

もりもりもりもり。

もりもりもりもりもりもりもり。

 

母は目を疑ったと言いました。僕の可愛いお尻から切れ目なく溢れ出す茶色いベイブは、幼児のひり出すそれの大きさを遥かに凌駕していたのです。成人女性である母曰く、自身の経験、二十数年の人生からしてもここまでに丸々と育ちきったベイブは見たことがなかったとの事でした。

 

そして全てを終えた後、便器に残されたのはオオサンショウウオと見間違う程に堂々と佇むある種の天然記念物だったと言います。この子は、齢五つにしてこんな大物をお腹の中に抱え込んでいたのか。こんな大物を抱えて約三十分を耐え抜いたのか。母は目の前であぐらをかく我が子の我が子を見て、我が子の成長をひしひしと感じていたそうです。まだ母親になって五年程度ですが、「これがおばあちゃんになるということか」と、きっとそう感じていたことでしょう。

 

とりあえず危機は乗り切った。トイレは混んでいるし、早めに出てまた祭りに戻ろう。年に一度のせっかくのお祭り。この子にもできるだけ長い時間楽しませてあげたい。

 

そう思った母はいち早く事を済ませ、トイレを出る事にしたそうです。当たり前のように僕のお尻を綺麗にし、服を着せ、オオサンショウウオを自然に帰すべく、レバーを引きました。

 

ざあああっ。

 

強い水流が流れて行きました。

そして母はトイレを出ようとしました。出ようとして再度、その目を疑いました。

 

便器の中には先程と寸分の違いもなく、オオサンショウウオが佇んでいるのです。

 

一体、何が起こったのか、理解ができなかったと言います。確かについ今し方水は流したはず。

母は慌てて、もう一度レバーを引きました。

 

ざあああっ。

 

そこで母は再度、自身の目を疑ったと言います。

 

便器の中のオオサンショウウオは激しい水流にも微動だにせず、ただゆっくりとその大きな体を揺らしながら涼しい顔をしていたのです。

これには母も青褪めたそうです。トイレの水流で流れないなんて、未だかつて、こんな大便はお目にかかったことがない。この子はもしかしてとんでもない大物になるのでは?と訳のわからない我が子への期待も膨らませつつも、とりあえずはこの場をどうすればいいのか母は悩みました。

 

何度かレバーを引きますが、水流は弱くなるばかり。しかもそんな水流の中で母を嘲笑うかのようにオオサンショウウオはゆらゆらと思わせぶりに身体を僅かに揺らしています。

僕は不安そうな母を見て、心細い面持ちでただただ見守っていました。

 

そしてそんな僕の姿を見て母は覚悟を決めたそうです。

 

このままではお祭りが終わってしまう。ももちゃんが楽しみにしていたお祭りがトイレの中で終わってしまう。

僕の顔と便器とを交互に見渡し、母はふうと一息つき、自身の顔をぱん、ぱんと何度かはたきました。そして僕を見て言いました。

 

「ももちゃん、お母さんが合図したらレバーを引いてくれる?」

 

鬼気迫る表情でした。僕も幼いながらにその緊張感を感じ取り、「うん」と小さく頷きレバーに手をかけました。

その横で母はトイレットペーパーを手に巻いていました。そして、僕に合図を送りました。

 

「いまよ!」

「えいっ」

「やあっ」

 

僕がレバーを引いたのと、母がまるでボウリング球を放るかのように利き腕を振ったのはほぼ同時でした。

 

そう、母は右腕でオオサンショウウオを物理的に便器の奥に押し込んだのです。

 

少し回復した水流と、母の子を思う力が共鳴し、オオサンショウウオはその巨体を凄い速度で便器の奥へと沈めていきました。まさに一瞬の事でした。さっきまで便器で存在感を放っていたオオサンショウウオはもう影も形も見えなくなっていたのです。あとに残ったのは微かに漂うオオサンショウウオの残り香と、遠くから聞こえる祭囃子だけでした。

 

それから数年して、当時の事を母はこう語っていました。

 

「おむつを替える時にう●こが手に付くことはあったけど、人の馬鹿でかいう●こを手で本気で押した経験は後にも先にもあの日だけだった」

 

息子に祭りを楽しませてあげたいという母の想いと、母の言う通りに健気に我慢をした僕のほんのり甘酸っぱい淡い想い出のお話でした。

 

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